午前中に行われた「萩ものしり博士検定」の受検者特典として参加された方と一般参加の方を合わせ、約30人の参加者の皆さんと共に江向の町並みを散策しました。
萩の城下町は松本川と橋本川に挟まれた三角州の上に造られたため、常に水害に悩まされてきました。
特に江向地区は周りに比べて標高が低く湿地が多かったため、主に水田や蓮田として利用され、洪水発生の際には水を逃がす遊水池としての役割も担っていました。
まずは、旧萩藩校明倫館の南門(なんもん)からスタート。
NPO萩明倫学舎の末永さんのガイドで旧萩藩校明倫館の歴史について学びました。
この南門は萩藩校明倫館の正門でしたが、藩主が明倫館に用事がある時や大事な儀式がある時にしか開けられず、生徒たちは普段は左側にあった小さい門を通っていたそうです。
次は、旧萩藩校明倫館の水練池です。
こちらではNPO萩明倫学舎の粟屋さんのガイドで説明を受けました。
この水練池では、藩政時代に遊泳や水中騎馬の練習が行われたそうで、現存する水練池としては国内最古のもので、藩校に水練池が造られたのは萩の明倫館と会津の日新館だけらしいとのこと。
また、水練の他にも、大雨の時などに水を逃がす「用水堀」としても使われていた記録が残されています。
さらに、前原一誠が萩の乱を起こした際にはこの明倫館を本拠にしましたが、隙を突かれて鉄砲や火薬などを全てこの水練池の中に入れられたという逸話から、煙硝池(えんしょういけ)とも呼ばれているそうです。
続いて、ジオパーク推進課の白井さんから三角州の成り立ちと地形についてレクチャーを受けました。
もともと指月山のふもとは海に囲まれていて、山の岩が崩れて砂になって、その砂が海側からの風で吹き寄せられて砂丘ができ、反対側からは阿武川によって土砂が運ばれて堆積していって三角州ができたそうです。
ここからは2班に分かれて江向を歩いていきます。
旧萩藩校明倫館の周りの外堀には、敷地内の水を逃がす「水ヌキ」と呼ばれる排水溝の跡が残っています。
この外堀にはたくさんのカニが生息していますが、もう冬眠に入ってしまったのか姿を見ることはできませんでした。
市民館の隅に置かれている萩城下街割原標石です。
このあたりは萩の真ん中のヘソにあたり、萩城下の街割りの基準にされました。
元々はすぐそばの道路の真ん中にあったものを現在の場所に移動させたそうで、元の場所には目印となる正方形の石が埋め込まれています。
美味しいケーキとコーヒーをいただき、所蔵している美術品の説明や美しい庭園の景色を楽しみました。
次の目的地に向け藍場川沿いを歩きます。
藍場川は6代藩主によって開削された人工の川で、これも三角州の水害対策の1つでした。
藍場川沿いを歩いていくと藍玉座跡の古い土塀が見えてきます。
藍玉座とは藍染めの原料となる藍玉を作っていた場所で、藍場川の名前の由来になったそうです。
ここは川幅が広くなっていて、ここで川舟の向きを変えたことから舟回しと呼ばれています。
若松屋筋と呼ばれる道。
ずーっと向こうまで見渡せます。
藍場川と新堀川が合流する少し手前の場所。
ここには製蝋のための水車小屋があったらしく、すぐそばの道は水車(みずぐるま)筋と呼ばれています。
イチョウのきれいな中央公園前を通ってスタート地点に戻って終了です。
心配していた雨も途中で上がり、およそ1時間半の散策を楽しみながら「水とともに暮らした城下町の秘密」を知っていただけたのではないかと思います。
参加者のみなさん、協力してくださった江向のみなさん、ありがとうございました。
*おまけ*
当日使用した、江向マップのPDFを公開します。
まち歩きの参考にしてみてくださいね。